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2012年2月25日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

1503 あるところに、ヌーのあまりに堅く、筋肉質な肉を好まない大蛇がいた。ヌーの大群が川を横切った時にも、彼の兄弟やいとこたちはごちそうにありついていたのに、彼は泥と血の入り混じる水中でじっと動かず、ただ眉間に皺を寄せるのだった。 ヌーたちは蛇の態度を誤解し、それを寛大さによるものと思い込んだ。そして、哀れみと優しさによって肉食の本能を押さえ込んだのだ、と心打たれたのである。 その時だった、荒れ狂う水流から突如生まれた波のように、蛇はヌーの群れの真ん中にひょっこりと顔を出し、容赦ない両顎でもってこの愚かな獣たちの一匹をがぶりとやったのである――すっかり態度を軟化させていたのだ。 -- 2026年3月5日、シュヴィヤールの新作小説「 Jaune soleil 」ならびに「Monotobio」 文庫新装版 がミニュイより発売予定。 エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

2026年2月18日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

6144 三十冊もの本を書き、生涯にわたり自分自身を映す鏡のような唯一無二の作品集を作り上げた彼――沈黙を愛し、そしてなにより希少な言葉を大切にした私の義父、 ブリュノ・ドュボルゲル *がこの世を去ったと認めろだって? そんなの信じるもんか! 「とにかく」はお喋り好きがお気に入りの口癖である。 頁はめくられる。いつも通りの、当たり前のことだ。わたしたちが愛するあらゆる文学がそこに印刷されているのでなければ、そのことを嘆く理由もないだろう。 -- *ブリュノ・ドュボルゲル氏はジャン・モネ・サン=テティエンヌ大学で美学・芸術学の教授を務め、イコンおよびイコノクラスムの問題、カジミール・マレーヴィチやピエール・スラージュをはじめとする近現代画家、子どもの絵の分析などをめぐって三十近くの著作を残した。 翻訳者は、彼の最後の著作となった「Philippe Favier : Image en clef de Mozart」(2025年)の刊行記念の会にて少しお話ししたのが、生前にお会いする最初で最後の機会となった。 2026年3月5日、シュヴィヤールの新作小説「 Jaune soleil 」ならびに「Monotobio」 文庫新装版 がミニュイより発売予定。 エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

2015年2月11日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

2516 文学――読むことも書くことも――が、そこに身を捧げる者を吐きそうなまでにうんざりさせる日々が大いにある。ところが、文学の一切をおもいきり厄介払いしようとするとき、彼は気づく――まさにその理由で書物のトンネルの中に身を投じたあの日以来、何も変わっていないということに。外の世界はもっとひどいし、退屈はあらゆるものに錆のようにこびりついているのだ。 「パパを殺してママと寝たんだ」 「心安らかに行きなさい。全ては赦されました」 告解室での治療が寝椅子のそれよりも素早く効果的であることは認めざるをえない。 私は手当たりしだい何でも利用する*――その結果、自分が座っている枝まで切り落とす羽目になるのだが。 -- *「faire flèche de tout bois(あらゆる木片から矢を作る)」。「あらゆる手段にうったえる」の意味の慣用表現。 2026年3月5日、シュヴィヤールの新作小説「 Jaune soleil 」ならびに「Monotobio」 文庫新装版 がミニュイより発売予定。 エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

2009年2月4日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

468 きのう、私は自伝を読み返した。なんて面白い物語なんだろう! 掛け値なしに、この本がずっと終わらないでほしいくらいだ。 ランの花と女性器が似ているとあんなによく言われるのは、いったいどういうわけだろうと不思議に思っていた――実際に私の小さなジョウロが、むくりとたちあがる日がくるまでは。 作家が死ぬたび、奇妙な反射神経が人々を書店に走らせる。突如として彼の本が読みたくて読みた……あれ……失礼……ああ頭が……心臓が……あああああ……ぱたり -- エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

2015年1月28日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

2502 ああ、燃えたぎる若さ、何ものにも止められないあの狂奔よ! 若き日の放埒の記憶が入り乱れながら、堰を切ったように思い出される・・・・・・私は狂っていた! 日中バルザックを二冊もむさぼったあとは、ひと晩中飽くことなく『失われた時』を読みふけるなんて。大胆すぎる! もうあんなことはできまい! カフェにて、おしゃべりな年金暮らしの老人たちが二人してクロスワード・パズルをやっている。隣のテーブルに座っている私はそのせいで、自分の言葉をまっすぐ並べるのにちょっと苦労している。 甘い口づけによってついに目覚めた眠れる森の美女は、少しお尻が痛いわと訴えた。すてきな王子様は視線を落としつつささやいた――「あらゆる手を尽くさなきゃならなかったんだ・・・」 -- エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

Nakahara à Paris / Yasuhiro Yotsumoto

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NAKAHARA À PARIS Yasuhiro Yotsumoto Au musée du Louvre, sur le palier sombre d’un escalier, je fus arrêté par un homme portant un melon bas, un manteau noir, d’une taille presque d’enfant. « Je m’appelle Chûya Nakahara*. Et toi, monsieur, c’est quoi ton nom ? Marchons un peu et partageons chacun nos idées sur la vie » Drôle de chose qu’un homme mort depuis plus d’un demi-siècle donne ses idées sur la vie, mais bon nous sortons tous les deux de la pyramide vitrée Il serait naturel que, pour Nakahara qui ne vécut que trente ans  je paraisse un peu vieux au milieu de la quarantaine Nous nous sommes dirigés vers Saint-Germain, sur la rive de la Seine de plus en plus crépusculaire La grande roue qui illustra le millénaire avait été enlevée au XXIᵉ siècle Nakahara qui n'atteint que mon épaule malgré ma petite taille me suit parfois en trottinant pourtant d’un air bien fier « Tu te présentais comme un dadaïste, mais tu visais moins à tout nier et à tout détruire qu’à extraire les couches ...

2019年1月21日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

 3854 二人の飢えた男が大通りを歩いていた。とつぜん、なんたる幸運だろうか、一羽のガチョウが通りかかり、二人はそれを捕まえて首をひねった。さあ、分け合って食べよう、というところであった。しかし、二人のうちより力が強く、またより卑しくもあるほうの男は、ガチョウの羽をむしり終えるとその羽を仲間に差し出して言った――「ほら、おまえの半分だよ」――そして鳥を全て平らげてしまったのである。 ところがこの話には教訓がある。というのは、分け前として羽をもらったほうの男は、それを使って傑出した詩を書き、すばらしい小説を生み出したのである。 しかしながら彼は空腹のままである。 -- エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

2026年1月14日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

 6111 「オートフィクティフ」の一番目のノート。 「オートフィクティフ」の二番目のノート。 「オートフィクティフ」の三番目のノート。よし、もうスクロールを止めて大丈夫ですよ。 -- エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

2026年1月12日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

2026年1月12日 いまや世界は、頭のおかしい呑んだくれの暴君によって治められるようになってしまったようだ。そいつの采配のもとで崩壊寸前の地球を、武装闘争が血でぬらし、せり上がる最後の波が呑みこんで消しさっていく。いっぽうのわれわれは自分たちの知性をロボットに明け渡し、ただ愚かであることに腐心しさえすればよいというのだ。 ところが文学のほうはといえば、すっかり優等生になってしまった。大義のために闘い、行きすぎには気をつけ、教訓のための寓話を提供し、罪をあがなってくれる。ハゲワシにとっての死体以上にちょうどよく読者にお供えされている今日の文学は、家族の絆を回復し、わたしたちに寄り添ってくれ、癒やしの効果まであるのだ。 まったく・・・・・・本当は逆のはずではなかったか? 世界は賢さと分別、公正さをもって治めるのがよく、そして文学においては、禁じられることは何もなく、どんなイマジネーション、馬鹿馬鹿しさ、ファンタジー、暗黒趣味、あらゆる狂気さえも、やりすぎということはないはずではないか? というわけで物事を本来あるべき位置に戻すことにしよう。トランプとプーチン、金正恩には執筆をさせておき、作家たちにこの世界を上手に管理してもらうことにしよう。 -- エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子

2025年1月7日(シュヴィヤール「オートフィクティフ」)

2025年1月7日 製菓業界の金の延べ棒キャンペーンの話*をもう少しだけさせてほしい。キリスト教の祝祭の趣旨に反した金もうけ主義の企画と思われるかもしれないが、しかし新約聖書には、東方三博士が生誕の贈り物として、神の子に、幼子イエスに捧げたのは乳香、没薬、そして黄金だとはっきり書いてある。そう、黄金であってフランジパーヌじゃないのだ。 こうして聖書の文字通りの読解に立ち戻ったことはむしろ、われらが敬虔なパティシエたちの功績といわねばなるまい――自由奔放な聖典解釈があふれるこの時代に。 ただ心配なのは、ルリジューズとサントノレ**がこの厳格な遵守のせいで被害をこうむらないか、クリームが廃止されて代わりに没薬が使われるなんてことにならないか、ということである。 --  * 前日の投稿で、1月6日の公現祭(幼子イエスへの東方三博士の訪問を記念するキリスト教の祝日)に食べられるガレット・デ・ロワ(パイ生地のなかにフランジパーヌと呼ばれるクリームを入れて焼いたケーキ。「王たちの菓子」という意味で、王とは東方三博士rois magesのこと)の中に、通常フェーヴと呼ばれる小さな陶器製の人形などを入れるところ、445ユーロ相当の金のミニ延べ棒入りの「当たり」を混ぜて販売するというキャンペーンについて言及していた。 ** ルリジューズとサントノレはフランスの伝統菓子で、ルリジューズは「修道女」の意味、サントノレは聖オノレにちなむ。 エリック・シュヴィヤール(Éric Chevillard)のブログ「オートフィクティフ(L'Autofictif)」は こちら L'Arbre vengeur社刊行のバックナンバーは こちら 翻訳 稲田紘子