淵上毛銭「構成」のフランス語訳について / A propos de la traduction de "La Composition" de Mosen Fuchigami

昨日アップした毛銭の詩の仏訳について。原詩と拙訳は以下の通り。


「構成」

人間同士って
うるさいなあ。

森は
静かによりあって、

泉が
こんこんと湧いている。


"La Composition"

Quel bruit
des hommes les uns les autres 

Tandis que les bois
se côtoient placidement,

où jaillit
une source intarissable.


・抽象名詞の題といい「森」といい、ボードレールの「万物照応(Correspondances)」を思わせるが、内容的にも形式的にもずっとシンプルな詩。タイトルの「構成」は素直に単数の定冠詞をつけて「La Composition」とする。

・「人間同士って/うるさいなあ。」:
終助詞の「なあ」は、「感嘆形容詞(adjectif exclamatif)」を使って「Quel bruit(なんて騒音だ)」と訳すことにする。問題は最後の句点をどうするか。フランス語の感嘆文にはふつうpoint d'exclamation (! 感嘆符)が付くけれど、ちょっと大袈裟な感じがする(あるいはわたしがこれを「びっくり」マークと思いすぎなのか)。日本語の終助詞の微妙さ。ちなみに俳句の切れ字(「や」「かな」「けり」など)を訳すのにはしばしばtiret(—)が使われるが、これもしっくりこず、かといって句点を置いてしまうとフランス語としてかなり不自然になる気がしたので、結局何も付けないことにして、次の連のTandis queを大文字で始めることでふわっと切れるようにした(変だったら教えてください)。ポワン・ヴィルギュル(;)を使ってtandis queを引っ込める形でもよかったかもしれない。

・「森は/静かによりあって、」:
副助詞の「は」を「tandis que」として、対比の意味を強調した。よくみると変わった日本語。森というのは木がよりあったものであって、「森」と「よりあう」は厳密には主述関係にはならないはずである。しかし、「Dans la forêt, les arbres...(森では、木が・・・)」などとするのは訳しすぎだろう。具体的に何「が」よりあっているのかはよく分からないのだ。「森は」のあとの改行は、森を「構成」する有象無象のことを思わせる余白となる。boisはforêtより小さい森をさすが、複数形ではforêtと同規模の森を指すという(se promener au bois / dans les bois(プチロワ))。複数のものからなるひとつの体系、というニュアンスを期待してこの語を選んだ。

「よりあう」はse réunir, s'assembler, se tenir côte à côteなどが考えられる。前者二つはむしろ「人間同士」のうるささと結びつく気がして、集合するというよりはただ隣り合うというイメージの語を選びたく、副詞とのバランスを考慮してse côtoyerとしてみたのだが、改めて考えてみると「よりあう」の意味で使えるのかは怪しい。Académie française の辞書(9e édition)にIls se côtoient tous les jours sans pourtant se connaître.という再帰動詞の用法の例文があるが、これは「すれ違うcoudoyer」の意味。se serrerなども使えるかもしれないが、ただ木が密集しているだけの感じになるような気もする。やはり素直にse réunirを選ぶべきか。
原文はたんに「静かに」なのでcalmementでもよかったかもしれないが、たんにsans bruitなのではない透徹した静かさというニュアンスを込めたかった。

・「泉が/こんこんと湧いている。」:
「こんこんと」については「abondamment(豊富に)」とか「à flot(たっぷりと)」、「à profusion(おびただしく、ふんだんに)」などの訳語が考えられるが、これらはすべて意味上の訳であって、擬声語ないし擬態語としての側面を反映してはいない。
イヴ=マリ・アリューYves-Marie Alliouxは中原中也の「一つのメルヘン」に5回出てくる「さらさらと」をすべて「murmurant」と訳している(「囁く」の意味の動詞murmurerの現在分詞。この動詞は水や風の立てる軽いざわめき音にも使われるようだ。例:Un ruisseau murmure sur les cailloux. Le vent murmure dans le feuillage.(Académie 9e))。このような具合である。

それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
Sur laquelle le soleil, murmurant
Brillant en murmurant.

今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました・・・・・・
Au fond de la rivière jusqu'à maintenant sans eau,
L'eau murmurante en murmurant coulait......

アリュー氏はつぎのように述べてもいる。
「光あるいは水の流れの模倣的調和音は、フランス語では、同一語のあるいは擬声音(オノマトペ)の時ならぬ滝のような響きによってよりも、文章の、そして話の筋の全体的な運びによってのほうがはるかによく表現されるであろう。日本語の擬声音(オノマトペ)の翻訳の問題は、もちろん重要である。しかし、つねに次の事実を強調しなくてはならない。フランス語の豊かな音韻組織は、語をその暗示的音声のために直接に利用することを可能にするということ。一方、日本語では、音声の数が比較的少ないために、擬声音によって語の模倣的あるいは音楽的価値を強調する必要があるということ。容易に同意をえられるであろうが、フランス語のmurmureは、擬声音「さらさらと」に劣らず模倣音的である」(イヴ=マリ・アリュー『日本詩仏訳のこころみ 朔太郎・中也・太郎・達治』大槻鉄男訳、白水社、2007年、165頁。)

個々のオノマトペにピンポイントで対応する訳語を見つけようとするのではなく、日本語とフランス語のそれぞれの言語的特性をふまえたうえで、詩全体の流れに調和するかたちで訳すべき、ということだろう。とはいえ、murmurerはここでは意味的にも音的にも「さらさら」にちょうどぴったりな語である。原文ではたんに二度反復される「さらさらと」を、「L'eau murmurante en murmurant coulait......」のように、形容詞的用法とジェロンディフに分けて重ねる仕方もうまい。
では、「こんこんと」はどうするか。結論から言うと、わたしは意味の次元と音楽的次元とをべつべつに再現することにした。まず、意味的には「intarissable(尽きせぬ)」を選んだ(後述の理由で副詞ではなく形容詞に)。ここで表現されている森の静かな生命力を表現するには、量的な豊富さ(abondant)よりも、継続性という側面を際立たせるほうがよいと考えたためである。つぎに音については、フランス詩の得意技である脚韻にうったえることにして、人間界のbruit(騒音)と、泉がこんこんとjaillit(湧き出る)森の静けさの対比を表してみた。「うるさい」をbruyantではなくquel bruitとし、副詞intarissablementではなく形容詞を選んだのはこのように行末で韻を踏むことが目的であった。

思いのほか長くなってしまった。とくに巧くできた訳ではないが、だいたい以上のようなことを考えて翻訳をしています。ネイティヴチェックは受けていないし、見直すなかで改めてこれでいいのかと不安な箇所も浮上してきた。助言などを本ブログの問い合わせ欄からいただけると幸いである。

(追記)
se côtoient placidementの行、やはり肩の力が入りすぎている気がする。se tiennent côte à côte, tranquillementなどどするのがベターではないか。翻訳をしているとこういう「やっぱりこっちの方が」がこんこんと湧いてくる・・・・・・。